備前福岡郷土館とは?
地域に密着した資料館として興味深いトコロであり、「ひとのためにつくす」気持ちは、この福岡の地においていまだ命脈を保っているトコロである。
<備前福岡郷土館にまつわるファミリーヒストリー>
瀬戸内市長船町は、日本刀で有名であるが、その中の福岡の集落は一遍聖絵の『福岡の市』知られている。またここ福岡では平井秀策、平井武策なる人物の足跡が残されている。
平井秀策は、号を橘水といい、淳風館の客員講師を勤め、和気の閑谷、津山の勇修塾に学ぶとともに、京都へ出て医術を究め、福岡に開業した。人柄は心の広い、慈悲に満ちたふところの広い人格者であった。淳風館が閉館後、儒学者であり、医学者であった秀策は、明治初期、福岡の自宅を開放し、博文館と名付け、弟子の教育に努めたようである。その平井秀策の子が武策であり、1871年(明治4年)岡山藩医学館に学び、医師となり岡山県病院医員を経て、同僚の大石喜全、和気周輔とともに郷里福岡で平井病院を開設した。
武策の孫にあたる平井方策は、「(祖父は)とっても優しい人でした」「常々、人のために尽くせ、人のために尽くせと言っておりました」と語っている。また、東原幹雄氏(福岡住)によると「昔は節季払いといって、盆暮れなど時期を決めて金銭の支払いをしていたが、武策翁は診断した人に対して一切催促しなかった。支払う人があれば受け取るが、支払わない人に対して決して催促することなく、そのままにしておいた」ということである。
平井方策氏(医師)は、診療所として使用してきた建物(現備前福岡郷土館)が、古くなり別に新しく建て直したことをきっかけに、地域(福岡)の人々になんらか役に立つように使ってもらえればと、提供を申し出、現備前福岡郷土館としての歴史がスタートした。地域のボランティアによって造られた郷土館は、手づくりそのものであり、老人らの諸会合、憩いの場として(いわゆるサロン的性格)、あるいは郷土福岡の歴史的資料の展示館として歴史教育に、更に福岡生まれの画家の資料も展示するとともに、その一角には平井家ゆかりの資料も展示されているなど、地域に密着した資料館として興味深い場所である。「ひとのためにつくす」気持ちは、この福岡の地においていまだ命脈を保っているいるように思われる。
*淳風館・・・江戸末期にあって、有為な人材を世に送り出した漢学塾(私塾)
*全文「長船町史民族編」より抜粋
<備前福岡郷土館(旧平井内科医院)>
木造平屋建、寄棟造、桟瓦葺/大正4~5年(1915-16)
旧医院は大正4~5年(1915-16)の建築で、木造平屋建、寄棟造、桟瓦葺である。中央よりやや右寄りに玄関をもち、切妻屋根の破風まわりや円弧状の方杖など洋風の意匠でまとめられている。医学をおさめ、各地病院で修業し見聞を広めた結果、郷里で開業する時に、当時として最先端の様式を選んだものと思われる。和風の町並みの中に違和感なく溶けん込んでいるのは、設計と施工において和風に比肩できるだけの手間をかけているからであろう。この現備前福岡郷土館は備前福岡の歴史を伝える建物のひとつとして重要である。
*全文「岡山県の近代和風建築」-岡山県近代和風建築総合調査報告書-(安田年一氏)寄稿より抜粋